長髄彦との戦いに敗れた神倭伊波礼毘古命(後の神武天皇)たちは、大和へ正面から入る道を断たれました。
兄・五瀬命は戦いで受けた矢傷が深く、もはや進軍を続けられる状態ではありません。
日の昇る方角を背に受けて大和へ向かう。
その新たな決意を胸に、一行は海路で紀伊半島を南へ回り、熊野を目指します。
しかし、その旅路は決して順調なものではありませんでした。
兄との別れ。
人の力では抗えない土地の気配。
そして、東征そのものが終わりかねないほどの大きな試練が、一行を待ち受けていたのです。
この危機を救ったのは、一人の男が見た夢と、一振りの神剣でした。
五瀬命との別れ
紀伊国へたどり着いた頃には、五瀬命の傷はすでに深く体を蝕んでいました。
戦場では誰よりも先頭に立ち、弟たちを導いてきた兄も、これ以上進むことはできません。
一行は男之水門(おのみなと)に船を寄せます。
静かな入り江で、五瀬命は弟たちに見守られながら、その生涯を閉じました。
長髄彦との戦いは、一度の敗北だけでは終わりませんでした。
兄を失ったことで、神倭伊波礼毘古命は、自らが東征を率いる立場となります。
悲しみに立ち止まることは許されません。
託された志を胸に、一行はさらに南へと歩みを進めました。
熊野へ
船は熊野の海へと入り、一行は山深い地へ足を踏み入れます。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く深い森と険しい山々でした。
木々は空を覆い隠し、昼でも薄暗く、吹き抜ける風が森を揺らしています。
海沿いを進んできたこれまでの旅とは違い、ここには人の暮らしの気配がほとんどありません。
ただ、古くから神々が宿ると伝えられる山々が、静かに一行を見つめているかのようでした。
神倭伊波礼毘古命たちは、この熊野の地で、これまで経験したことのない試練に直面することになります。
荒ぶる神の毒気

熊野の山中を進んでいたある日のことでした。
一行の前に、一頭の大きな熊が姿を現します。
その熊は神々の気配をまとい、じっとこちらを見つめていました。
それは「熊野山之荒神(くまのやまのあらがみ)」が大熊と化した姿だったのです。
しばらく一行を見つめると、深い森の奥へと姿を消していきました。
その直後でした。
神倭伊波礼毘古命をはじめ、一行は次々と力を失い、その場へ倒れ込んでしまいます。
傷を負った者だけではありません。
それまで元気に歩いていた者たちまでもが、まるで見えない何かに命の力を奪われるように、意識を失っていったのです。
剣を振るう敵の姿はありません。
矢も槍も飛んではきません。
それでも、軍勢は進むことも立ち上がることもできず、東征は熊野の山中で完全に足を止めることになりました。
高倉下が見た夢
その頃、熊野に住む高倉下(たかくらじ)という人物が、不思議な夢を見ていました。
夢の中では、天照大御神と高木大神(高御産巣日神)が、高天原でこの危機を見守っていたのです。
そして高木大神が建御雷神に向かい、地上へ赴き、天つ神の御子を助けるよう命じました。
しかし建御雷神は、自ら地上へ降りることはせず、こう答えます。

かつて葦原中国を平定したときに用いた剣があります。
その剣を遣わせましょう。
その神剣を、高倉下の倉へ届けると告げたのです。
夢の中で高木大神は、高倉下へこう告げます。

朝になったら倉を開けなさい。
倉の屋根に穴をあけ、その穴から神剣を降ろそう。
夜が明け、高倉下が夢のお告げのまま倉へ向かうと、そこには屋根を通って降ろされた一振りの神剣が静かに納められていました。
高倉下は、これが高天原から授けられた神宝であることを悟り、その剣を携えて神倭伊波礼毘古命のもとへ急ぎます。
熊野に降りた神剣

高倉下が献上したその剣は、布都御魂(ふつのみたま)と呼ばれる神剣でした。
それは、かつて建御雷神が国譲りの際に携えたと伝えられる、天つ神の力を宿す剣です。
神倭伊波礼毘古命のもとへその神剣を届けると、不思議なことが起こります。
意識を失っていた神倭伊波礼毘古命はゆっくりと目を開き、倒れていた軍勢も一人、また一人と立ち上がっていきました。
そして、一行を苦しめていた荒ぶる神々の気配は、いつしか山の奥へと消えていったのです。
熊野で失われかけた東征の道は、高倉下の夢と、布都御魂という神宝によって、再び動き始めたのでした。
神々の導き
熊野での出来事は、神倭伊波礼毘古命たちにとって忘れることのできない試練となりました。
兄・五瀬命を失い、人の力では抗えない荒ぶる神の前に倒れ、東征は終わりを迎えるかに思えました。
しかし、高天原の神々は、その道を絶やそうとはしませんでした。
夢を受けた高倉下は、天より授けられた神剣を携え、神倭伊波礼毘古命のもとへ駆けつけます。
その一振りの剣によって、一行は再び立ち上がり、熊野で途絶えかけた東征の道は、もう一度動き始めました。
けれど、熊野の深い山々は、なお一行の行く手を阻みます。
立ち上がる力は取り戻しました。
しかし、大和へ至る道は、まだ閉ざされたままでした。
そのとき、高木大神は新たな導き手を遣わします。
深い森の静寂を破るように、一羽の大きな烏が翼を広げます。
その導きが、一行を新たな運命へと導いていくことになるのでした。
次回予告

熊野の山々には、なお多くの荒ぶる神々が潜んでいました。
高木大神は、神倭伊波礼毘古命たちを安全な道へ導くため、高天原から一羽の烏を遣わします。
その名は、八咫烏(やたがらす)。
神の使いは深い森を越え、一行を吉野へ、そして新たな運命へと導いていきます。
次回
「熊野の闇、その先へ ~ 八咫烏が示した道」
神武東征は、神々の導きとともに新たな局面を迎えます。
神話の流れをたどる
・【古事記】日の御子が敗れた日 ~ 長髄彦との戦い
熊野へ向かうきっかけとなった、神武東征最初の敗北を描いた物語
・【古事記】国譲りとは?大国主神が託した新たな時代
熊野で授けられた神剣「布都御魂」が、建御雷神によって用いられた国譲りの物語をたどります
・【神様図鑑】建御雷神 ~ 雷と剣を司る、静かなる最強の武神
神武東征を支えた神剣「布都御魂」を託した、武神・建御雷神について詳しく解説します
・【神様図鑑】高御産巣日神
神武東征を見守り、高天原から導きを授けた神について詳しく解説します


