火遠理命と塩の神 ~ 海底の異界へ

神話の基礎知識

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の火中出産によって生まれた三兄弟。
その末弟が、山の幸を司る火遠理命(ほおりのみこと)でした。

兄・火照命(ほでりのみこと)から借りた釣針を失くしたことで、火遠理命は謝罪し、あらゆる償いを差し出しました。
しかし兄は首を縦に振りません。

「私の釣針は、それではない」

その言葉が意味していたのは、物の価値ではありませんでした。
海と生きる誇り、境界、そして兄弟のあいだにある“序”そのものだったのです。

山へ帰っても、心は晴れない。
海に立っても、居場所がない。
火遠理命は、波音に包まれながら、ただ一人、海辺に立ち尽くしました。

「どうすれば…元に戻るのだろう」

その嘆きを、潮だけが聞いているようでした。

そのときです。
背後から、足音も立てずに近づく気配がありました。

潮を知る老神・塩椎神

波間から現れたのは、白い髪と深い眼差しをもつ神でした。

塩椎神(しおつちのかみ)
潮の満ち引き、海の道、この世と異界の境を知る老神です。

塩椎神は、ただの助言者ではありません。
神話の中で、境界を越える者の前に現れ、“道そのもの”を開く存在です。

火遠理命は、まだ釣針を探すことしか考えていませんでした。
けれど塩椎神の言葉は、もっと大きな扉を示していました。

塩椎神
塩椎神

海神(ワタツミ)の宮へ行きなさい。あなたが失くした釣針は、そこにあるでしょう。

火遠理命は思わず問います。

火遠理命
火遠理命

海の底へ……どうやって?

塩椎神は答えません。
代わりに、波打ち際へ進み、手を動かしはじめました。

竹を編み、隙間なく組み、舟とも籠ともつかぬ小さな器を作っていきます。
それは「無間勝間(まなしかたま)の小船」と呼ばれるもの。

“隙間がない”という名は、この世と異界の境をすり抜けるための器であることを意味していました。

塩椎神はそれを、火遠理命の前へ差し出します。

塩椎神
塩椎神

さあ、乗りなさい

火遠理命は一瞬ためらいます。
海は恐ろしい場所でした。
自分の力では何もできず、ただ運ばれるしかない世界です。

しかし、ここで立ち尽くしていても、何も戻りません。
火遠理命は小船に膝をつき、静かに身を預けました。

その瞬間、潮が変わりました。

波が、火遠理命を押すのではなく、連れていくように動き出したのです。

境界を越える旅

海は、ただの海ではなくなっていきます。

波音は遠のき、空は曖昧になり、時間が薄く、伸びていくような感覚がありました。

火遠理命は漕ぎません。
舵も取りません。
ただ、潮に運ばれていきます。

ここには、人の世の常識が通じませんでした。
上も下もなく、遠さも近さも意味を失う。
“進んでいる”のか“沈んでいる”のかさえ分からない。

けれど、塩椎神の小船だけは確かでした。
迷うことなく、一直線に“ある場所”へ向かっていきます。

そして、ふと世界が静まり返りました。

波の音が消えたのです。
音のない海。
それは怖さではなく、異様な整いを感じさせました。

「ここから先は…もう元居た世界ではない」

火遠理命は、言葉にできない確信を抱きました。

海神の宮

海神の宮。
潮の底にある、異界の都です。

小舟は、やがて一つの門の前で止まりました。

門のそばにあったのはひとつの井戸。
海の底に井戸…

この不思議さが、ここが異界であることを決定的にします。

井戸のそばには、桂(または杜)の木が立っています。
火遠理命は、その木を見上げました。

ここでは、むやみに動くべきではない。
そう直感したのです。

火遠理命は、そっと木に登り、身を潜めました。

この世界では、自分から名乗ることが正しいとは限らない。
この地の住人が、こちらを見つけるまで待つことこそが、“異界の作法”なのだと、身体で感じ取っていました。

火遠理命は息をひそめます。
井戸の水面は、鏡のように静かでした。

水面の影

ちゃぷ。

かすかな水音が響きます。
誰かが近づいている気配。

足音は軽く、けれど確かでした。

井戸の水面が、わずかに揺れます。

そのとき、水面に一瞬だけ、影が映りました。
顔の輪郭、髪の揺れ、光を宿した目。

けれど次の瞬間、影は消え、水面は何事もなかったかのように静まり返ります。

足音が遠ざかっていきました。

火遠理命の胸が、強く脈打ちます。

「……見られたのか?」

誰にも声をかけられていない。
名も告げていない。
言葉も交わしていない。

それなのにこの世界は、すでに自分の存在を知った。

出会っていないのに、もう始まっている。
その感覚だけが、火遠理命の胸の奥で、静かに、しかし確かに燃え続けていました。

火遠理命は、井戸を見つめながら思います。

「ここに来たことを、誰かが知った……」

潮の底の都で、運命の歯車が、いま確かに回り始めていました。

次回予告

行玄
行玄

井戸で火遠理命を見つけた“影”は、海神の宮に仕える者でした。
その報告が、海の姫の心を動かします。

次回、火遠理命はついに海神(おおわたつみ)と、その娘・豊玉姫(とよたまひめ)へと導かれていきます。物語は「争い」から「縁」へ。
そして皇統の系譜を動かす、神婚の章が始まります。

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