前回の記事では、古事記が「日本最古の歴史書」であり、神道の世界観を伝える大切な書物であることを紹介しました。
神社で祀られる神々の物語や、日本人の精神性は古事記に記されており、過去の遺産ではなく現代にも息づく知恵であることを見てきました。
今回は、この古事記がいったい誰によって、どのような想いで作られたのかを物語風にお伝えしていきます。
古事記の始まりは天武天皇の志から

古事記の始まりは、第40代天武天皇の時代(飛鳥時代)までさかのぼります。
当時、各地に伝わる歴史や伝承は統一されておらず、誤りや食い違いも多くありました。
氏族ごとに話が異なり、そのままでは天皇を中心とする国家の基盤が揺らぐ事態になりかねませんでした。
天武天皇は考えました。
「天皇家の正当な歴史を、正しく後世に残さねばならない!」
そこで白羽の矢が立ったのが、稗田阿礼(ひえだのあれ)という人物でした。
天武天皇と稗田阿礼
ある日、天武天皇は阿礼を呼び寄せ、こう語りかけました。

阿礼よ。お前の記憶力と聡明さは誰にも劣らぬ。
この国の歴史と神々の物語を、すべて心に刻み、語り伝えて欲しい。
やがて乱世が訪れようとも、この国の根が決して揺らがぬように。
阿礼は深く頭を垂れ、天皇の言葉を胸に刻みました。
彼はそれ以降、「帝皇日継(天皇の系譜)」と「先代旧辞(古い伝承)」を暗唱し、天皇の望みに応えようとしたのです。
しかし、天武天皇が崩御すると、この事業は中断となってしまいます。
その後、稗田阿礼が記憶していた内容を、元明天皇の勅命を受けた太安万侶(おおのやすまろ)が筆録することで、和銅5年(712年)、ついに古事記が完成したのです!
古事記は”天武天皇の志”、”稗田阿礼の記憶”、”太安万侶の筆”三者の想いが合わさって生まれた書物なのです。
神道と古事記のつながり
古事記の編纂には、天皇の存在を神々の物語と重ね合わせるという意図がありました。
「天皇は神の子孫である」という神道の世界観を、歴史と結び付けて示すことで、国家としての正当性を築こうとしたのです。
つまり古事記は、歴史書であると同時に、国家と神道を繋ぐ文書でもあったのです。
古事記と日本書紀の違い

ここで古事記と並んで語られることが多い日本書紀を少し紹介しましょう。
日本書紀は古事記の8年後(720年)に完成しています。
漢文体で時系列に整理された「正史」として作られ、外国(特に中国、朝鮮)に向けて、日本の正当性を示すために編纂されたと言われています。
それに対し古事記は、変体漢文で記され、日本語の響きを大切にして作られています。
ここには、日本語そのものに宿る「言霊(ことだま)」の力を尊ぶ日本の精神が表れているのかもしれません。
日本の言葉は一つ一つの響きに魂が宿り、力があるとされています。
「人の心や自然界に影響を与える」
そうした古来の信仰に根ざし、単なる文字ではなく、声に出して語られることで力を持つ物語として伝えられたとも考えられますね!
古事記は国内向けにまとめられ、物語性が強いのが特徴です。
この違いから、古事記は皇室の教育書、あるいは天皇家と氏族の関係を整理する文書であったと考えられています。
宮中の私的な記録のため、当時はあまり広く読まれていなかったようです…
現代への繋がり
天武天皇が「正しい歴史をまとめねばならぬ」と考えた背景には、国家をひとつにまとめるための切実な想いがありました。
これは現代でも同じことでしょう。
情報があふれる時代だからこそ、「何を真実とし、次世代にどう伝えるのか」が問われています。
日本の精神性「調和」
古来より伝わっている自然信仰
これからの時代に本当に大事なものは何なのか。
古事記の編纂に込められた願いは、今を生きる私たちにも「自分たち、日本のルーツを忘れず、未来へと繋いでいこう」という大切なメッセージを残してくれているような気がします。
次回予告
古事記は。天武天皇の構想から始まり、元明天皇に引き継がれ完成しました。
外国に向けて正当性を示す『日本書紀』に対して、古事記は国内向けに神話と歴史を物語としてまとめ上げた、日本独自の書物です。

次回は、「古事記の全体像~上・中・下の三巻構成」 をテーマに、その内容を見ていきましょう。