高天原を追われた須佐之男命は、荒ぶる風を背に、天と地の狭間をくだりました。
心の中には、まだ拭いきれぬ痛みがありました。
姉・天照大神との誓い、そして別れ…
たどり着いたのは、豊かな水と緑に包まれた出雲の国。
そこは、天とは違う穏やかで温かな世界でした。
けれど、その静けさの奥には、人々を恐怖させる巨大な影が潜んでいたのです。
それが、八つの頭と尾を持つ大蛇「八岐大蛇(やまたのおろち)」
荒ぶる神の運命は、ここで再び動き出します。
破壊の力から、守る力へと変わる“誓いの物語”が、いま出雲の地で始まろうとしていました。
八つの影、山より来たる
出雲の夜は静けさで包まれていました。
けれど、風の奥底には、背筋を冷やりとさせる気配がありました。
老夫婦の家に身を寄せ、須佐之男命は天を仰ぎます。
満ちる月が雲の隙間から覗き、川面に光を落としています。
その光を見ながら、彼はそっと呟きました。

荒ぶる力は、いま 祈りのために。
夜が明ける前に、老夫婦が言いました。

八岐大蛇は、山の彼方の黒雲とともに現れます。
その鳴き声は雷のよう、息は炎のよう……。
須佐之男命は静かに頷き、指示を出します。

八つの門を作り、八つの酒樽を置きなさい。
山の酒を八度仕込み、風の香を混ぜるのです。
老夫婦は必死に働き、
出雲の山々の恵みを集めて酒を造りました。
それは「八塩折(やしおり)の酒」
八度煮詰め、八度澄ます。
神の血のように濃く、黄金の光を帯びていました。
櫛名田比売、祈りの櫛に
準備が整うと、須佐之男命は櫛名田比売(くしなだひめ)の前に立ちました。
彼女は震える指で髪を整え、その瞳に恐れと希望が混ざっていました。

恐れることはありません。
あなたを、必ず守ります。
彼は手をかざし、櫛名田比売の姿を一本の櫛に変え、髪に挿しました。
それは誓いの証。
彼女を守るための護符。
そして神と人とを結ぶ“約束”でした。

我が髪に宿り、我が心とともに在れ。
風がやみ、川の水音だけが静かに響いていました。
山を揺るがす影
その夜…
山の向こうから、地鳴りが響きました。
木々が倒れ、土が震え、空が赤く染まります。
やがて「影」は現れました。
八つの頭、八つの尾。
その体は山を覆い、腹の下には常に血が流れ、背には苔と樹が生えていました。
その目は燃えるような赤。
息は炎を孕み、一歩ごとに地を焦がしました。
八岐大蛇(やまたのおろち)
須佐之男命は剣を抜き、低く息を吐きました。

来い。約束の刃は、逃げぬ。
酒の香に眠る巨躯
大蛇は八つの門へと進み、酒の匂いに誘われて、次々と樽に首を突っ込みました。
ぐうぐう……と腹を鳴らし、樽を飲み干すたびに動きが鈍くなります。
八つの首が、次第に垂れ、やがて重なり合うように倒れました。
地は沈み、空気が止まる。
須佐之男命は、静かに立ち上がりました。

いまこそ、この国の穢れを断つ。
神剣、闇を断つ
須佐之男命の剣が光を帯びました。
風が凪ぎ、世界がひとつ息を潜めます。
須佐之男命は駆け出しました。
剣の軌跡が稲妻のように走り、大蛇の首をひとつ、またひとつと断ち切ります。
血が川へ流れ、炎が霧となり、やがてすべてが静まり返りました。
しかし、最後の尾を断とうとした瞬間、剣先に硬いものが当たります。
大蛇の尾を裂くと、その中に一振りの剣が光を放っていました。
それは、
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
のちに「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれ、三種の神器のひとつとなる神剣でした。
須佐之男命は剣を掲げ、天を仰ぎ、静かに誓います。

この剣は、我が荒魂の証。
いつの日か、光を護る者に託そう。
雲が裂け、朝の光が出雲の山々を照らしました。
出雲の夜明け

須佐之男命は髪から櫛を外しました。
そこから光があふれ、櫛名田比売の姿が戻ります。
彼女は涙を流しながら微笑みました。

あなたは、神々の中で最も優しいお方です。
須佐之男命は首を横に振り、
静かに答えました。

優しさを教えてくれたのは、あなたです。
風が吹き、花が咲き、出雲の地は再び静かな息を取り戻しました。
荒ぶる神は、この地で“守りの神”へと生まれ変わったのです。
次回予告

須佐之男命の血を受け継ぎ、新たな時代を築く者が現れます。
その名は大国主命(おおくにぬしのみこと)
出雲を治め、人と神とを結ぶ“国づくりの神”。
新しい物語が、ここから始まります。
次回からは
因幡の白兎や大国主命が登場する「国譲り神話」をお伝えしていきます。



