熊野の山中で道を失った神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、高木大神から遣わされた八咫烏の導きを受け、再び大和を目指して歩き始めました。
吉野の山々を越え、一行がたどり着いたのは宇陀(うだ)。
そこには、この土地に暮らす二人の兄弟がいました。
兄の兄宇迦斯(えうかし)。
弟の弟宇迦斯(おとうかし)。
神倭伊波礼毘古命の到来を前に、二人の兄弟は異なる道を選ぶことになります。
八咫烏が届けた言葉

宇陀へ入った神倭伊波礼毘古命は、兄宇迦斯と弟宇迦斯のもとへ八咫烏を遣わしました。
熊野から一行を導いてきた八咫烏は、二人の兄弟へ問いかけます。
「今、天つ神の御子がこの地へ来られています。あなたたちは、お仕えしますか」
その言葉に、兄宇迦斯は答えませんでした。
代わりに手にしたのは、弓。
矢をつがえ、八咫烏へ向けて放ちます。
飛んでいったのは、音を響かせる鳴鏑(なりかぶら)でした。
鋭い音が宇陀に響きます。
八咫烏はその場から追い返されました。
兄宇迦斯の意思は、放たれた一本の矢によって示されたのです。
兄宇迦斯が仕掛けた罠
八咫烏を追い返した兄宇迦斯は、神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうと考えました。
周囲の者たちを集め、戦うための軍勢を整えようとします。
しかし、思うように人は集まりません。
正面から戦うだけの兵を揃えることができなかった兄宇迦斯は、別の手段を選びました。
服従すると見せかけて、神倭伊波礼毘古命を罠にかけるのです。
兄宇迦斯は、大きな御殿を造り始めました。
表向きは、天つ神の御子を迎えるための場所。
けれど、その内部には押機(おし)と呼ばれる仕掛けが設けられていました。
何も知らずに御殿へ入れば、その仕掛けによって押し潰されてしまいます。
兵を集めることができなかった兄宇迦斯は、偽りの服従によって神倭伊波礼毘古命を御殿へ誘い込もうとしていました。
しかし、その計画を知る者がいました。
弟の、弟宇迦斯です。
弟宇迦斯が明かした兄の計画

弟宇迦斯は、神倭伊波礼毘古命のもとへ向かいました。
そして、兄が企てていることを伝えます。
兄宇迦斯は、天つ神の御子に仕えるつもりがないこと。
戦うために兵を集めようとしたものの、十分な人数を集められなかったこと。
そして、服従すると偽り、御殿の中に罠を仕掛けていること。
弟宇迦斯の言葉によって、兄の計画は明らかになりました。
神倭伊波礼毘古命を待っているのは、迎え入れるための御殿ではありません。
足を踏み入れた者の命を奪う、偽りの御殿です。
けれど、罠の存在を知った一行は、そのまま引き返しませんでした。
兄宇迦斯の待つ御殿へ向かいます。
そこで兄宇迦斯の前に進み出たのが、神倭伊波礼毘古命に仕える二人の武人でした。
「お前が先に入れ」

一人は、道臣命(ミチノオミノミコト)。
大伴連らの祖とされる人物です。
もう一人は、大久米命(オオクメノミコト)。
久米直らの祖と伝えられています。
二人は兄宇迦斯を前にすると、刀の柄を握り、弓に矢をつがえました。
そして、兄宇迦斯に迫ります。
「お前が御子のために造った御殿だというのなら、まずお前自身が中へ入り、その仕組みを明らかにせよ」
兄宇迦斯に逃げる道はありませんでした。
刀を向けられ、弓を構えられたまま、御殿の中へ追い込まれます。
その先に何があるのか。
兄宇迦斯自身が、誰よりもよく知っていました。
自ら造った御殿。
自ら仕掛けた押機。
本来なら、神倭伊波礼毘古命を待ち受けていたはずの罠。
兄宇迦斯は、その中へ入ります。
次の瞬間、仕掛けが動きました。
兄宇迦斯は、自ら用意した押機に打たれ、命を落とします。
神倭伊波礼毘古命を倒すために仕掛けた罠が、兄宇迦斯自身を襲ったのです。
宇陀に残された血の名
倒れた兄宇迦斯は、御殿の外へ引き出されました。
『古事記』では、その身体は斬り散らされたと伝えられています。
流れ出した血は、その地を赤く染めました。
そして、この出来事から、その場所は宇陀の血原(ちはら)と呼ばれるようになったとされています。
兄宇迦斯との戦いは、ここで終わりました。
その後、弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命の一行に多くの食べ物を献上し、もてなします。
長い山道を越え、宇陀で命を狙われた一行。
その宴の場で、神倭伊波礼毘古命に従う久米の者たちは歌をうたいました。
『古事記』に残されている久米歌(くめうた)です。
宇陀での戦いと、その後の宴。
兄宇迦斯が拒んだ一行を、弟宇迦斯は食事をもって迎えました。
同じ兄弟でありながら、その選択は最後まで交わることがありませんでした。
こうして宇陀での出来事を終えた神倭伊波礼毘古命は、再び大和の奥へ向かいます。
しかし、その行く手には、まだ一行を阻もうとする者たちが待ち構えていました。
次回予告

兄宇迦斯の罠を退け、宇陀を越えた神倭伊波礼毘古命。
一行はさらに、大和の奥へと進みます。
その先で待ち構えていたのは、多くの勇士たち。
正面から戦えば、容易には突破できません。
神倭伊波礼毘古命たちは、再びひとつの策を講じることになります。
神話の流れをたどる
・【前回物語】熊野の闇、その先へ ~ 八咫烏が示した道
熊野で道を失った神倭伊波礼毘古命一行は、高木大神から遣わされた八咫烏に導かれ、吉野の山々を越えて宇陀へ。大和を目指す旅は、新たな土地へと進みます。

