豊玉毘売は、子を残して海へ帰りました。
「決して見ないでほしい」
その約束は破られ、海と地上をつなぐ道、海坂は閉ざされます。
浜辺に残されたのは、ひとつの命でした。
残されたもの
波は、変わらず寄せては返していました。
あの夜と同じように、海は何事もなかったかのように静かです。
火遠理命は、子を抱いていました。
小さな身体。
まだ言葉もなく、ただ温もりだけがそこにあります。
鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
屋根を葺き終える前に生まれた子。
その名の通り、未完成の中でこの世に現れた命でした。
手の中の戸惑い

火遠理命は、その子を見つめます。
戦うことはできる。
守ることもできる。
けれど、この命をどう育てればよいのか。
その術を、彼は知りませんでした。
泣き声に戸惑い、抱き方に迷い、ただ時間だけが過ぎていきます。
浜辺には、海の気配が残っています。
けれど、豊玉毘売の姿は、もうありません。
海から来る者
ある日、波の音が変わりました。
それは強さではなく、深さの変化でした。
火遠理命が顔を上げると、海の向こうに、人影が見えます。
やがて、その姿は浜へと近づいてきました。
ひとりの女性です。
波に濡れた衣をまとい、静かに立っています。
その気配に、火遠理命は息をのみました。
豊玉毘売と、同じ海の気配。
女性は、子を見つめて言いました。
「姉より、この子を託されました」
その一言で、すべてが伝わります。
彼女は、玉依毘売。
豊玉毘売の妹でした。
玉依毘売


……その子を
女性は、そう言いました。
声は静かで、余計な感情はありません。
火遠理命は、子を抱いたまま立ち尽くします。
女性は一歩近づき、そっと手を差し出しました。

私が、育てます
その言葉は、説明ではなく、ただ自然とこぼれた言葉です。
火遠理命は、しばらくのあいだ動きません。
やがて、ゆっくりと子を預けます。
姉の面影
女性は、静かに子を抱き上げました。
その手つきに、迷いはありません。
泣き声はすぐに収まり、小さな身体は、その腕の中で安らいでいきます。
火遠理命は、その様子を見つめていました。
どこかで見たことのある光景。
けれど、それは思い出ではなく、すでに失われたものでもありました。
波の音が、静かに重なります。
海は何も語りません。
ただ、その所作の中にだけ、確かに、あの毘売の気配が残っていました。
育まれる日々
それから、日々が過ぎていきます。
玉依毘売は、言葉少なに子を育てました。
浜辺で、波の音を聞きながら、静かに、確かに。
火遠理命は、その様子を見守ります。
何かを語ることはありません。
けれど、確かにわかっていました。
この命は、ひとりでは繋げなかったものだということを。
海の記憶

子は、少しずつ成長していきます。
その寝息の中に、波のようなリズムがありました。
その瞳の奥には、どこか深い静けさがあります。
玉依毘売は、それを見つめます。
そして、何も言わずに、そっと微笑みました。
この子の中には、確かに海が生きている。
そう知っていたからです。
静かな距離
火遠理命と玉依毘売は、同じ場所にいながら、それぞれの役割を担っていました。
火遠理命は、父としてその命を見守り、玉依毘売は、育てる者としてその命を支えます。
言葉は多くありません。
けれど、互いに踏み込むこともありませんでした。
そこには、結びつきではなく、ただ一つの命を繋ぐための、静かな共存がありました。
やがてこの命は、さらに先へと繋がっていきます。
山の血と、海の血。
その両方を受け継いだ流れは、やがて一つの系譜となり、新たな時代へと向かっていきます。
まだ、この時には誰も知りません。
この命が、やがて大きな物語へと繋がることを。
次回予告

残された命は、やがて成長し、次の時代へと歩み始めます。
その命を育てた玉依毘売は、やがて新たな役割を担うことになります。
鸕鶿草葺不合尊の成長と、玉依毘売が繋ぐ皇統のはじまり。
海と山の血は、ここから一つの流れとなっていきます。

