見てはならぬ姿 ~ 豊玉毘売と海坂の別れ

神話の基礎知識

豊玉毘売は、火遠理命の子を宿しました。

海の血と山の血をあわせ持つその命を、
彼女は地上で産むことを選びます。

浜辺には産屋が建てられ、ひとつの約束が交わされました。

決して、中を覗かないこと。

夜は、静かに近づいています。

産屋の外で

海は穏やかでした。

風は弱く、波は、砂をなぞるように寄せては返します。

火遠理命は、産屋の前に立っていました。

中には、豊玉毘売がいます。

戸は閉ざされ、その内側は見えません。

ただ、ときおり、かすかな息遣いが聞こえてきました。

約束は、まだ守られています。

揺らぐ境界

やがて、夜が深まります。

海の音が、わずかに変わりました。

波が少しだけ強くなり、風が産屋の隙間を通り抜けます。

鵜の羽が揺れ、その音が、内側の気配と重なりました。

火遠理命は、戸口を見つめます。

中の様子は見えません。

けれど、確かに何かが起きています。

息が荒くなり、声が混じりはじめました。

火遠理命の胸に、不安が広がっていきます。

約束の向こう側

「決して、覗かないでください」

その言葉が、何度もよみがえります。

火遠理命は、目を閉じました。

けれど、音は消えません。

むしろ、はっきりと近づいてきます。

何かが、変わろうとしている。

そう感じたとき、足が動きました。

戸口のわずかな隙間へ、視線が向かいます。

そして…
その内側を、見てしまったのです。

本来の姿

そこにいたのは、人の姿ではありませんでした。

長く、うねる身体。

月の光を弾く鱗。

産屋いっぱいに満ちる、巨大な存在。

八尋和邇(やひろわに)。

海の深みに生きるものの姿が、そこにありました。

火遠理命は、息を呑みます。

その瞬間、その存在が、こちらを見ました。

豊玉毘売の目でした。

ひとつの終わり

やがて、産声が響きます。

命は、無事に生まれました。

しばらくして、戸が開きます。

豊玉毘売は、人の姿に戻っていました。

その顔に、怒りはありません。

ただ、静かでした。

豊玉毘売
豊玉毘売

……見られてしまったのですね

火遠理命は、何も言えません。

言葉は、もう意味を持たないと知っていました。

豊玉毘売は、子を抱き上げます。

豊玉毘売
豊玉毘売

この子を、どうか…

それだけを告げると、彼女は振り返らずに歩き出しました。

海坂

波が、彼女の足元に寄せます。

豊玉毘売は、そのまま海へと入っていきました。

水は彼女を受け入れ、やがて姿を覆い隠します。

そして、
道が閉じました。

海と地上をつないでいた境は、
静かに塞がれました。

もう、戻ることはできません。

残されたもの

浜辺には、小さな命が残されました。

鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)

屋根を葺き終える前に生まれた子。

火遠理命は、その子を抱き上げます。

腕の中の温もりが、現実を伝えていました。

静かな波

海は、何も変わらず穏やかでした。

波は寄せては返し、ただそれを繰り返します。

けれど、あの境は、もう開きません。

火遠理命は、海を見つめます。

その視線の先に、豊玉毘売の姿はありませんでした。

次回予告

行玄
行玄

残された命は、やがて一人では育ちません。

海の血を引く者が、もう一人。
豊玉毘売の妹が、姿を現します。

そして皇統は、静かに繋がっていきます。

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