兄・火照命との争いは、潮の力によって静かに終わりました。
海神より授かった玉は、勝利のためではなく、秩序を取り戻すために使われました。
潮が引いた浜辺には、
再び穏やかな波の音だけが残ります。
争いは終わりました。
けれど、その浜辺にはもう一人、
静かにそのすべてを見ていた者がいました。
海神の娘、豊玉毘売です。
静かな時間
争いのあと、浜辺には穏やかな日々が戻りました。
潮は満ちては引き、空は高く澄み、風はやわらかく砂を撫でていきます。
火遠理命は、兄との出来事を胸に収めながら、
海を見つめる時間が増えていました。
その隣には、いつも豊玉毘売がいます。
彼女は多くを語りません。
ただ、静かに海を見ていました。
まるで、遠い場所に向かって話をしているかのように。
告げられる命

ある夜のことでした。
月の光が海を照らし、波は白くきらめいています。
豊玉毘売は、火遠理命の前に座りました。
しばらく言葉はありません。
やがて、静かな声が落ちました。

あなたに、お伝えしなければならないことがあります
火遠理命は、黙って耳を傾けます。
豊玉毘売は、少しだけ視線を落としました。
そして言いました。

新たな命を宿しました
波の音が、わずかに大きく聞こえました。
火遠理命は、言葉を失います。
兄との争いのときには感じなかった重みが、胸にゆっくりと降りてきました。
やがて、火遠理命は問い返します。

私の…子なのか?
豊玉毘売は、静かにうなずきました。

あなたの子です
海と山の血
しばらくの沈黙が流れました。
やがて豊玉毘売は、続けて言います。

けれど、この子は……海の血も引いています。
出産は……海で行うのが本来の姿です。
火遠理命は、その意味を理解します。
この子は、山の子であり、海の子でもある。
境界に立つ命でした。
豊玉毘売は、遠くの海を見つめます。

ですが、この子は、あなたの子でもあります。
だから私は、地上で産もうと思います。
波が、浜に静かに寄せてきました。
産屋の前で交わされた約束

それからほどなくして、海辺に小さな産屋が建てられました。
浜の砂を踏み固め、柱を立て、屋根には鵜の羽を葺いていきます。
まだ屋根は葺き終わっていません。
風が隙間を通り抜け、羽を揺らしました。
豊玉姫は、産屋の前で立ち止まります。
そして火遠理命をまっすぐに見つめました。
豊玉毘売は、ゆっくりと言いました。

ひとつ、お願いがあります。
どうか、決して、産屋の中を覗かないでください。
火遠理命は少し驚きます。
けれど、何も問いません。
豊玉毘売は続けました。

他国の者は、出産のとき本来の姿になります。
その言葉の意味を、火遠理命は完全には理解していませんでした。
けれど、そこにある真剣さだけは感じ取ります。
火遠理命は言いました。

わかった。
見ないと約束しよう。
豊玉毘売は、小さく微笑みます。
海と山のあいだで
夜が近づいていました。
海は静かで、まだ月は昇っていません。
産屋の中では、豊玉毘売が出産の時を待っています。
外では、火遠理命が立ったまま、戸口を見つめていました。
「決して、覗かないでください」
その言葉が、まだ耳に残っています。
風が吹くたび、葺き終わっていない鵜の羽が揺れました。
産屋の中から、かすかな息遣いが聞こえます。
火遠理命は動きません。
ただ、その戸口から目を離せずにいました。
やがて産屋の中で、何かが動きます。
海の姫は、これから本来の姿へ戻ろうとしていました。
次回予告

産屋の中で、海の姫は本来の姿へ戻ります。
そして、ひとつの約束が破られます。
次回「豊玉毘売の出産と、海坂の別れ。」
海と人の世界は、再び境界を閉じることになります。

