海神の宮の門前には、井戸がありました。
海の底にあるとは思えないほど、水は澄み、静まり返っています。
その傍らに立つ桂の木。
火遠理命は、その枝の上に身を潜めていました。
ここでは、歩き回ってはならない。
声を上げるのも違う。
ただ、時を待つ。
それだけが、この場所に来た者に許された振る舞いでした。
侍女と水
やがて、井戸へ水を汲みに来る者たちが現れます。
海神の宮に仕える、侍女たちです。
彼女たちは、桂の木を見上げることもなく、器を手に、井戸のそばへ歩いてきます。
そのとき、木の上から、低い声が落ちます。
「水を…いただけますか」
侍女は驚き、顔を上げました。
枝の間に、見知らぬ若者の姿があります。
名も告げず、事情も語らない。
けれど、その佇まいは、ただ者ではありませんでした。
侍女は何も問わず、井戸の水を汲み、器を差し出します。
無言の名乗り

火遠理命は、水を受け取りました。
しかし、口をつけません。
首から下げていた玉の緒を外し、そのひとつを口に含みます。
そして、器の中へ、静かに吐き入れました。
玉は沈まず、水に触れたまま、器の底に留まります。
侍女が器を揺らしても、外れません。
言葉を使わず、名も告げず、来意も語らず、火遠理命は無言で自らが「天孫の系譜にある者」であることを示したのです。
豊玉毘売との出会い
侍女は、その器を抱え宮へ戻ります。
宮の奥で、その器を渡された者がいます。
海神の娘、豊玉毘売(とよたまびめ)。
侍女から事情を聞いた彼女は器を受け取り、玉を見つめました。
しばらくのあいだ、何も言いません。
やがて、侍女に告げます。

その方を、お迎えなさい
海を司る大神・綿津見神
こうして、火遠理命は宮へ迎え入れられました。
現れたのは、海を司る大神・綿津見神(わたつみのかみ)。

山の子よ…
その声は低く、静かでした。

お前が失くした釣針は、奪われたのではない。
海へ還っただけだ。
綿津見神は、話を続けます。

幸とは、持つものではない。
扱い方によって、その者のあり方が映る。
火遠理命は、黙ってその言葉を受け止めました。
過ぎていく時間

宮での時は、静かに流れていきました。
火遠理命は、豊玉毘売とともに暮らし、三年の歳月が過ぎます。
ある日、彼は、ふと息をつきました。

……まだ、兄の釣針を返していません
その声を聞いた綿津見神は、海の魚たちを呼び集めます。
「誰が、その釣針を知っている」
一匹の魚が前に出ました。
「赤い鯛が、喉に骨を詰まらせて苦しんでおります」
鯛の喉から、釣針は見つかりました。
洗い清められ、火遠理命の手に戻されます。
潮を司る教え
綿津見神は、さらに二つの玉を授けました。
ひとつは、潮を満たす玉「鹽盈珠(しおみちのたま)」。
ひとつは、潮を引かせる玉「鹽乾珠(しおひのたま)」
どちらも、手のひらに収まるほどの大きさです。
けれど、その内には、海そのものの力が宿っていました。
綿津見神は、それを火遠理命の前に置き、言います。

この釣針を、兄に返すとき、後ろ手で渡しなさい。
そのとき、言葉を添えよ。兄が高い土地に田を作るなら、お前は低い土地に作れ。
兄が低い土地に作るなら、お前は高い土地に作れ
声は低く、淡々としていました。
火遠理命は、黙って聞いています。

水は、私が司る。
ゆえに、兄の田は実らず、次第に貧しくなるだろう。
綿津見神は、そこで一度言葉を切りました。

もし、兄が怒り、刃を向けてきたならこの鹽盈珠を使え。
潮は満ち、足場を失った者は、水に呑まれる。
だが、兄が許しを乞うたなら、そのときは、この鹽乾珠を使え。
潮は引き、溺れた者は、再び息を取り戻す。
殺すための力ではない、生かし、従わせるための力だ。
綿津見神は、そう告げました。
火遠理命は、二つの玉を受け取り、深くうなずきます。
そこに、ためらいはありませんでした。
山幸彦、再び地上へ
綿津見神は告げました。

地上へ戻りなさい。
お前の世界は、まだ整っていない。
そのとき、豊玉毘売が一歩前へ出ます。

私も、共に参ります
火遠理命は、しばし迷い、そして、静かに頷きました。
小舟が、地上へ向かって動き出します。
海神の宮は、潮の奥へと遠ざかっていきました。
豊玉毘売は、振り返りません。
前方に、地上の気配が近づいてきます。
そこには、兄の待つ世界がありました。
次回予告

潮の底で整えられたものは、地上で試されることになります。
次回、火遠理命は兄・火照命と再び向き合います。
釣針が返されるとき、力と誇りが、真正面からぶつかります。
物語は、再び「山と海の争い」の章へ。

