朱色の鳥居が連なる稲荷神社。
「商売繁盛」「五穀豊穣」の神として、日本で最も身近な存在の一つが稲荷大神です。
その稲荷大神に、日々の感謝と願いを言葉として捧げる祈り。
それが 稲荷祝詞(いなりのりと) です。
稲荷祝詞は、特別な修行者だけのものではありません。
農村でも、町でも、商家でも、人々の暮らしのすぐそばで唱えられてきた祝詞です。
この記事では、ご利益を強調しすぎることなく、稲荷祝詞が どのような祈りとして受け継がれてきたのか を神話と信仰の視点から、やさしく解説していきます。
※本記事は、特定の信仰や解釈を断定するものではなく、日本神話や神社文化を理解するための参考情報としてまとめています。
稲荷信仰と祝詞の関係

稲荷信仰の総本山として知られるのが伏見稲荷大社 です。
稲荷大神は、もともと稲の実りを司る神として信仰されてきました。
稲が実ることは、命がつながることそのものです。
そこから稲荷信仰は、自然と農業だけでなく、家の生業や商い、さらには人の営み全体へと広がっていきました。
稲荷祝詞は、そうした暮らしの中で育まれた祈りです。
神に何かを「してもらう」ための言葉というより、生かされている現実を確認し、感謝を言葉にするための祈りとして受け継がれてきたのです。
稲荷祝詞とは何を祈る祝詞か
稲荷祝詞が大切にしている内容は、とても素朴です。
日々の恵みに対する感謝、生業が続いていることへの御礼、家族や一族が無事に過ごせていることへの祈り。
そして、これからも見守っていただきたいという静かな願いです。
そのため稲荷祝詞は、「強く願う」祝詞ではありません。
すでに与えられているものに気づき、それを神前で言葉にして返す。
そんな姿勢が、祝詞全体を通して流れています。
商売繁盛というイメージが先行しがちですが、実際には家内安全、仕事の継続、人との縁、日常の安定など、暮らし全体を包み込む祈りとして唱えられてきました。
稲荷祝詞の全文について
稲荷祝詞には、いくつかの系統や文言の違いがあります。
神社で奏上されるもの、地域で伝えられてきたものなど、完全に一つに統一されているわけではありません。
本記事では、代表的な 神社で用いられる稲荷祝詞 を紹介します。
稲荷祝詞・全文
掛巻も恐き稲荷大神の大前に
恐み恐みも白く。
朝に夕に勤み務る
家の産業を緩事無く怠事無く。
彌奨めに奨め賜ひ彌助に助け賜ひて。
家門高く令吹興賜ひ堅磐に常磐に命長く。
子孫の八十連属に至まで
茂し八桑枝の如く令立槃賜ひ。
家にも身にも枉神の枉事不令有
過犯す事の有むをば神直日大直日に
見直聞直座て
夜の守日の守に守幸へ賜へと恐み恐みも白す。
祝詞の言葉は、現代語として一語一語の意味を追うよりも、全体の流れや響きに身を委ねること が大切にされてきました。
意味を理解しようと力む必要はありません。
静かに声に出し、その調べを感じ取ること自体が祈りになります。
稲荷祝詞(全文訳)
口に出すのも畏れ多い稲荷大神の御前で
恐れながらも申し上げますことは。
「朝晩働く家業を緩まず怠らず続けられますよう
一層奨励し援助してくださり、家門を興隆させてくださり
堅い岩が永遠にそこにあるように命も長く
子孫を、長く続きいて多くの桑の枝が茂るように多く繁栄させてくださり
家にも身にも、曲がった神の曲がったことをあらせないで
過ちを犯す事のあるのを、曲がったことを直す神様のお力でもって
見直し聞直しなさって
夜も日も守って幸いを与えてください。」
ということを、恐れながらも申し上げます。
稲荷祝詞に込められている考え方
稲荷祝詞に通底しているのは、次のような価値観です。
① 生かされていることへの感謝
稲荷祝詞の根底にあるのは、「生かされていること」への感謝です。
米が実ること、仕事が続くこと、今日も家族が一日を迎えられたこと。
それらを当たり前とせず、神の恵みとして言葉にする姿勢が大切にされてきました。
② 人の営みと神の働きは切り離されない
また、稲荷信仰では、人の努力と神の働きは切り離されていません。
- 働くこと
- 続けること
- 工夫すること
それらすべてが神の働きと響き合い、暮らしを形づくるものだと考えられてきました。
③ 願いは「私利」より「調和」へ
そのため、祝詞に込められる願いも、自分一人の成功ではなく、家や仕事、地域、そして周囲との調和へと自然に向かっていきます。
この感覚こそが、稲荷祝詞が長く受け継がれてきた理由の一つでしょう。
稲荷祝詞を唱えるときの心構え
稲荷祝詞を唱える際、難しい作法は必要ありません。
大切なのは、次の3点です。
①ゆっくり、丁寧に
言葉を急がず、一息ずつ整えながら唱えます。
②願いよりも、まず感謝
「どうしても叶えたいこと」より先に、今ある恵みを思い出します。
③日常の延長として
特別な日だけでなく、節目や区切りのタイミングで唱えても構いません。
稲荷祝詞は、暮らしの中に溶け込む祝詞 なのです。
稲荷祝詞は「生き方を整える祈り」

稲荷祝詞は、運命を劇的に変える魔法の言葉ではありません。
けれど、
- 感謝を言葉にする
- 今の立ち位置を確認する
- 自分の営みを見つめ直す
そうした積み重ねが、結果として流れを整えていく。
それが、稲荷祝詞という祈りの本質なのかもしれません。
次回予告|稲荷大神秘文とは?
次回は、稲荷信仰の中でも あまり表に語られてこなかった「稲荷大神秘文」 を取り上げます。
祝詞とは何が違うのか。
なぜ「秘文」と呼ばれてきたのか。
稲荷信仰の奥にある、もう一段深い祈りのかたちを、静かにひも解いていきます。
祝詞をより深く学びたい方へ
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