高天原を追われた須佐之男命は、
天と地を分かつ境を、ひとつ、またひとつと降りていきました。
白い雲の海は、やがて薄れ、その下に広がるのは、深い緑と流れる水の国。
出雲。
大地は豊かに息づき、川は清く、風はやわらかい。
しかしその美しさの奥に、どこか悲しみの影が揺れていました。
須佐之男命は心の奥で、まだ消えきらない思いを抱いていました。
「どうして、うまくゆかぬのだろうか…」
姉である天照大神を心から敬い、慕っていた。
世界を傷つけたいと願ったことは、一度もなかった。
ただ、心が波立ち、そのまま行動となってしまう。
荒ぶる神として生まれた運命は、まだこのときの須佐之男命には、重すぎるものでした。
川辺にさざめく泣き声
須佐之男命が歩いたのは、出雲を流れる肥河(ひのかわ)のほとり。
川は静かに揺れ、その水面は空を映していました。
そこで、すすり泣く声が聞こえました。
水辺にひざまずく老夫婦と、そのそばに立つ、一人の少女。
少女はうつむいたまま、白い指をぎゅっと握りしめていました。

なぜ、泣いておられるのです。
老父・脚摩乳(あしなづち)は、震える声で答えました。

我らには八人の娘がいました。
しかし、毎年現れる八岐大蛇(やまたのおろち)に、その娘たちを次々と奪われてしまったのです……。
老母・手摩乳(てなづち)の目は、涙で赤く腫れていました。

今年は、この子……
櫛名田比売(くしなだひめ)の番なのです。
どうにか、助けたいのですが……。
少女は泣きながらも、両親を気づかうように微笑もうとしました。
その小さな強さが、かえって胸を締めつけました。
須佐之男命は、静かに彼女を見つめました。
荒ぶる心は、今はない。
ただ、「救いたい」という、まっすぐな願いがありました。
荒ぶる神、変わる決意


ならば、私がその娘を救いましょう。
老夫婦は、驚きに息を呑みました。

ですが……八岐大蛇は、山のような体、
八つの頭と八つの尾を持つ怪物なのです……。
須佐之男命は、静かに笑いました。
それは、かつての荒れ狂う笑いではなく、どこか優しい光を宿した笑みでした。

私は須佐之男命。
荒ぶる神なれど、荒ぶる力は、守るためにも振るうことができる。
その声は、川のせせらぎとともに、大地へと響きました。
櫛名田比売は、小さく息をのみ、須佐之男命をまっすぐ見つめました。
その瞳には、ほんのわずか、確かな希望が灯っていました。
神と人がともに生きる国で
須佐之男命は思います。
姉を悲しませた己。
心を制しきれなかった己。
ならば、今度こそその力を、人々のために使おう。
この国に住む者の涙が、再び流れぬように。
その決意は、風となり、川となり、国そのものに染み渡っていくようでした。
次回予告

八つの頭を持つ巨体は山のよう。
その目は赤く、血のように光り、息は炎のように大地を焦がす。
八岐大蛇が迫ります。
次回は八岐大蛇と須佐之男命の闘いを話していきましょう。


