黄泉(よみ)の国から戻った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、身にまとった穢れを祓うために禊(みそぎ)を行いました。
そのとき、水の光の中から三柱の神が生まれました。
天を照らす女神・天照大神(あまてらすおおみかみ)
夜を司る神・月読命(つくよみのみこと)
そして、海と嵐を治める荒ぶる神・須佐之男命(すさのおのみこと)
父から世界の三つの領域を託された三貴子。
天・夜・海が分かたれ、世界は新しい秩序の中に生まれ変わりました。
しかし、その均衡は長くは続きませんでした。
天をめざす荒ぶる神
須佐之男命は、海を任された神でありながら、その心はいつも嵐のように荒れていました。
「母のいる国へ行きたい…」
その泣き声は風を裂き、波を立て、ついには天まで届きました。
怒った父・伊邪那岐命は、ついに彼をこの世から追放します。
それでも須佐之男命は、ただひとつの思いを胸に抱きました。
天にいる姉、天照大神にもう一度会いたい…
こうして、荒れ狂う風を背に、須佐之男命は天つ国・高天原へとのぼっていきました。
天上の対峙 ― 兄妹の再会

天照大神は弟の来訪を知り、空を見上げました。
空を覆う黒雲、轟く雷鳴。
「まさか、弟が天を奪いに来たのでは…」
そう疑った天照大神は、鎧をまとい、弓矢を手にしました。
天の国を守る神々がざわめき、空気が張りつめます。
やがて、嵐の中をくぐり抜けて須佐之男命が現れました。
その顔には怒りではなく、涙が浮かんでいました。

争うために来たのではありません!
姉上に、最後の別れを言いにまいりました
その声は静かで、どこか悲しげでした。
しかし、天照大神の胸の奥には、なおもかすかな影が残っていました。
須佐之男命の心が本当に清らかであるのか…
その疑いを、完全に拭い去ることはできなかったのです。
神々の占い「誓約」 ― 清らかな心を証す誓約

天照大神は須佐之男命の言葉を信じたいと思いました。
けれど、かつて荒れ狂った彼の行いを知る神々は、まだ不安をぬぐえませんでした。
そこで天照大神は言います。

では、“誓約(うけい)”をいたしましょう。
『誓約』、それは神々が心の正しさを確かめるために行う神聖な誓いです。

もし心が清らかであれば、良き神が生まれましょう。
もし心に邪があれば、禍つ神が現れるでしょう。
二柱は天の安河(あまのやすかわ)をはさんで向かい合い、
互いの持ち物を交換して祈りを捧げました。
まず、須佐之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取った天照大神は、それを三つに折り、水で清め、噛み砕き、息を吹きかけました。
その霧の光から生まれたのは、三柱の女神。
- 多紀理毘売命(たきりびめのみこと)
- 市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
- 多岐都比売命(たぎつひめのみこと)
のちに「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」として
海の道を守る神々となります。
次に、天照大神の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を受け取った須佐之男命が、それを清めて噛み砕き、祈りを込めました。
すると、その息の光からは五柱の男神が生まれました。
- 正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと) - 天之忍穂根命(あめのおしほねのみこと)
- 活津彦根命(いくつひこねのみこと)
- 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)
- 天津日子根命(あまつひこねのみこと)
これらの神々は後に、天照大神の系譜に連なり、天孫降臨へとつながる皇統の祖神とされます。
天上の風がやみ、川面が光に揺らめく中、天照大神はその神々の姿を見つめ、静かに頷きました。

弟よ、あなたの心は清らかです。
その言葉とともに、空に白い光が広がり、一瞬、天と海とがひとつになったかのようでした。
それは、神々が“心の真実”を確かめるために行う、最も清らかな儀式「誓約」の始まりだったのです。
須佐之男命の乱心
時が経つにつれ、須佐之男命の心は再び波立ちはじめます。
誓いの場を終えた後、彼の荒ぶる性が抑えきれなくなったのです。
田畑を荒らし、畦を壊し、神殿には糞をまき散らしました。
神々は恐れ、天の秩序は崩れかけました。
天照大神は深く嘆きます。
「なぜ…あの時、あなたの心はあんなにも清らかだったのに。」
須佐之男命は答えません。
そしてついに、神聖な織殿に皮をはいだ馬を投げ込みました。
巫女が命を落とし、空は鳴り、天は暗くなりました。
天照大神の心は砕け、彼女は光を閉ざして天の岩戸へと隠れてしまったのです。
世界が闇に包まれる

天照大神が岩戸に姿を隠した瞬間、天と地の光はすべて消えました。
昼も夜もなく、風も止まり、世界は息をひそめました。
神々は集まり、闇を見つめながら、光を取り戻す道を探します。
こうして、のちに語り継がれる「天岩戸」の物語が始まるのです。
まとめ
天照大神と須佐之男命の“誓約”は、
単なる勝敗ではありませんでした。
それは、神々が「心の清らかさ」を証明するための儀式であり、天と地、光と闇を結びつけるための神意の占いでした。
けれど、人の心も神の心も、清らかであり続けることは難しいものです。
この誓いのあと、二柱の運命は大きくすれ違い、やがて天の扉が閉ざされる出来事へとつながっていきます。
次回予告

天照大神が隠れたことで、世界は深い闇に包まれました。
しかし神々は、再び光を呼び戻すために集まります。
賑やかな笑い、神々の舞、知恵と祈りの儀式――
次回は「天の岩戸」の物語をお届けします。

